祟りじゃー

「祟りじゃー」と「しっかりしなさい」は同じ意味ではなかろうか。

神に祈ったにせよ、努力したにせよ、報われるとは限らない。

結局のところ、努力が神にとってかわっただけではないだろうか。

「神は死んだ」とニーチェがいったのが19世紀。

エスが誕生して1800年以上が経ったあとに、ようやく(といっていいと思う)この言葉が歴史に名を刻んだ。

だから「努力なんてクソくらえだ」という言葉も、いずれは歴史に名を刻むと思う。

ただ、それには時間が必要だ。

単純計算で、このテクノロジーの、あらゆるものが指数関数的に進歩する世の中で、仮に十倍速で努力が風化したと考えても、180年ほどはかかる。

19世紀末から考えると22世紀前後にこの言葉が刻まれるということになるだろうか。

少なくとも、21世紀は努力の世紀が続くというのが、妾の結論だ。

「いまの世の中は努力真理教でできている」と、誰かが上手いことをいっていたが、努力を頂点としてその下に人々がいる構図は、神を頂点としていた頃と少しも変わらない。

だから、上手いこと努力をしているふりをして、努力真理教信者から適当な距離を保ちつつ、自分のやりたいことをしていくことがいいのではないだろうか。

「努力で物事は解決しない」という言葉も併せて表舞台に出てくるには、まだまだ舞台が整っていないのだから。