最近、星新一先生のエッセイを読んでいる。
そして、こんなにいいものが、私にかけるのだろうか、と戸惑っている。
そこで思った。
この戸惑いは、どこからやってくるものなのだろうかと。
河合隼雄先生は「嫉妬は、可能性の発露だ」といった。
自分にできる可能性はある(或いはあると信じている)。だが、現実問題できていない。だから、嫉妬する。
なので、あまり嫉妬というのは悪いことではない、のだそうだ。
私のはこれとは一寸違うなぁ、と思って、表題に戸惑いとしたわけだ。
「こんなものが書けるのだろうか」というのが、一番の感情だったから、可能性はあるのやらないのやらわからない。
ただ、「ない」となればそれは「絶望」になりかねないので、それも違う云々。
はてはて、戸惑いとはいったいどういうものなのだろうか。
辞書で引いてみた。
「対処の仕方がわからず、まごまごする。まごつく」だそうだ。
なるほど、いい当てているかも知らんが、これも一寸違う。
対処の仕方は明瞭だ。
書き続けること、だ。
それに尽きる、と考えている。
なのに、この戸惑いは消えない。
ふと、これは不安から来るのではないか、と思った。
「惑う」のだから、多少なり不安はあるだろう。
それが、拭えないから、戸惑っているのではないだろうか。
「不安は、行動の不足から来る」と誰かがいっていたが、ということは単に今の状態は、私の行動が足りていないからか。
つまり、書き続けろ、ということか。
全力疾走しながら戸惑う、という話はあまり聞いたことがないなぁ、とそれなりに合点してみるのである。