独り暮らし

今年から、私は独り暮らしを始めた。

この書き出しからもわかるように、今年は日々のありふれたことを書いていきたい。

ブログを始めて二年が経ち、そういうものはやってこなかったが、ネタも少なくなってきたし「まあ、エッセイはこんな感じかな」というのも掴んだので、舵を切ることにした。

毎週月曜日に一週間にあった出来事を更新していくつもりだ。

いまの幸せは、独りの時間を幸せと感じつつかつ孤独と感じないことにあるらしいから、独り暮らしを始めた私は、結構いま幸せだ。

話は変わりすぎるが、神はいつだって私の味方だから、あまり恐怖というのを最近は感じない。

私の好きな話がある。

ある町を大雨が襲った。

川沿いに住んでいる男へ無線連絡が入った。

「この雨で川が増水している。早いうちに避難しろ」

すると、男はいった。

「大丈夫だ。私は神に愛されている。神に祈れば、助けてくださる」

少し川は増水し、ヘリコプターがやって来た。

「おい、そんなところでなにをしている。さあ、この梯子に捕まってみんなのところに行こう」

すると、男はいった。

「大丈夫だ。私は神に愛されている。神に祈れば、助けてくださる」

さらに川は増水し、救命ボートがやって来た。

「さあ、早くこれに乗って」

男はいった。

「大丈夫だ。神が助けてくださる」

そして、男は溺れ死んだ。

男は天国の門前に立って、神にいった。

「神よ。私はあなたに愛されていると思った。あれほど祈ったではありませんか。なのに、どうしてこんなむごいことをするのです」

すると、神がいった。

「私は、あなたに無線連絡と、ヘリコプターと、救命ボートを差し向けた。なのになぜ、お前はここにいるのか」

これは、ドラマ「ザ・ホワイトハウス」の「安息日」のラストシーンだ。

神は助けようとしてくださるが、助かろうとする人間も必要なのだ。

幸せもよく似ている。

幸せにしてくれようとする人間もいるが、なにより幸せになろうとする自分が必要なのだ。

幸せになるのは怖い。

「漠然とした不安」がそこにあるからかもしれない。

その不安に耐えるくらいなら、幸せにならないほうが楽なのかもしれない。

幸せになるには、相応の覚悟が必要、ということなのだろうか。