稽古とは一より習ひ十を知り十よりはへるもとのその一
これは千利休の一首ですが、わたくしとしては少し異を唱えたい部分があります。
それは、一より習ひ、と、もとのその一、の部分です。
なにかを習い始める時、人は零からスタートします。なにもないところからスタートするわけですから、一、という既に積み上がったなにかがあるわけではありません。
また、基本に返る、ということも、スタートが零なのですから、一ではなく零に返ってゆくのだと思います。
ですので、稽古とは零より習ひ十を知り十よりかへるもとのその零、というのが、わたくしの本意なのです。
尤も、零という概念が日本に伝わったのは、幕末から明治にかけてですので、利休としても、わたくしと同じ意味で詠んだのかもしれませんが。
いまとなっては、もう確認にしようもありませんが、仮になにかの積み上げがある一だとするなら、やはりわたくしは異を唱えるのです。
上記の短歌以外にも「振出しに戻る」や「一からやり直せ」という日本語がありますが、本来再スタートというものに振出しという出発点はなく、そこにはなにもないという零があるだけですし、一からではなく、零からやり直すべきでしょう。
振出しから再スタートすることもできますが、結局辿る道は同じなのですから、やはり同じようなところで行き詰ってしまうでしょうし、一からやり直しては、これも基礎が同じなのですから、似たようなところで失敗してしまいます。
どこが出発点なのかすらわからないまま再スタートを切り、まったくの零から物事をやり直す。
だからこそ、再スタートは難しく、行動しがたいものだと思っています。
このように考えていて、ふと、日本という国は再スタートへの認識が甘いのかな、と思いました。
「振出しには戻れる」「とにかくあの地点に戻ってやり直せばいい」と受け取れてしまうからです。
漠然と物事を仕切り直すことへのためらいが、あまりないと感じてしまいます。
しかし、物事を再スタートさせる時に、そういった感覚で臨んでしまうのは、わたくしとしては「恐いな」と思えてならないのです。
来週はお休みします。