無知の知

人間に物事を理解する力はない、と最近思うようになりました。

まったく、というほどではないですが、完璧に、ということもありません。

物事を理解するのは、そんなに簡単なことではないからです。

ここに一台のエレベーターがあります。

ボタンを押せば自分が止まりたい階に止まってくれます。

これは誰もが「知っている」ことです。

しかし、なぜボタンを押せば自分が止まりたい階に止まってくれるのでしょう。

ここが、誰もが「知らない」ことであり、ここを言語化できるならそれは「理解している」といって差し支えないでしょう。

わたくしはなぜボタンを押せばエレベーターが止まるか知りませんが、仮にそれを理解している人がいて、わたくしに止まる原理を丁寧に説明してくれたとしても、おそらく、それをわたくしは理解できないと思います。

エレベーターが止まる原理を理解するためには、きっとそれなりの知識が必要だからです。

それを持たないわたくしが、理解することはできないでしょう。

上記のように、物事を理解するためには、それなりの知識が必要なのです。また、エレベーターが止まる原理と、自動ドアが開く原理は、違うものでしょう。

もし、エレベーターが止まる原理を理解できたとしても、自動ドアが開く原理を理解できるとは限らないのです。

これを人に当てはめて、Aさんのことをよく理解できてもBさんのことをよく理解できるかは別問題です。

AさんにはAさんの、BさんにはBさんの知識が必要になるからです。

そして、苦労してなんとかBさんを理解できたと思ったら、今度はCさんが現れる。

こうやると、自分の理解できる対象は非常に狭いものだということがわかります。

それでよいのです。

エレベーターがボタンを押せば止まる原理を知らないことで、誰かに笑われるということは、まずありません。

ですから、わたくしとしては、人を理解できないのは、そんなに不思議ではないことだと思っています。

常に一定の機械ならともかく、常に不安定な人間という存在を理解するのは、容易ではないからです。

しかし、わたくしは「なにかを理解することは簡単ではない」ということは、理解している、つもりです。

ここを理解しているか理解していないかが、物事を理解する第一歩だと感じています。

尤も、これを理解することも簡単なことではないのかもしれませんが。

なにか理解することは簡単ではない、ということを理解している人が、それこそ、エレベーターの止まる原理を知らない人(そして、それを自覚して、それを恥じない)くらいいてくれたらいいのになぁ、と思うのです。