今昔

そして、規定どおりの成績を収め、六段昇進が決まった。ところが、「おれを負かしてないのだから、六段昇進は認められん」という先輩が出現した。いま考えればムチャを通りこして、笑いころげるほかはないが、当時は大まじめな論議となり、すんなりとは六段になれなかった。       

                         大山康晴 昭和将棋史

この話は昭和18年ごろにあったそうです。

また戦前には「君はまだ若いから」といって、昇段が先延ばしになった例もあるそうです。

今をときめく藤井八冠に「俺を負かしてないのだから、九段昇進は認められん」という人は誰もいないでしょう。

もちろん、今の将棋界は、大山先生が全盛期だった将棋界とは革新的と言っていいほど進歩していますし、昇段規定もより明確でタイトル獲得三期、竜王獲得二期、名人獲得一期、八段昇段後250勝で九段になれます。

そして、いまのところこの昇段規定を満たしていながら「俺を負かして……」といって昇段が認められなかったことはありません。

誰であれ、規定の成績を収めれば、どこまでも昇段できます。

しかし、わたくしが勤めている飲食店では、この昭和のころの将棋界のように「まだ若いから……」や「俺はこれだけなのに、あいつは昇進させるのか」というような声をよく聞きます。

それをきいて、わたくしは文字通り「笑いころげるほかない」のですが、時代は変わっても、日本人という民族はなかなか変わることのできない生き物のようです。

昭和初期の将棋界というものは、混乱期にありました。

実力制名人を決める中で勃発した神田事件。そのご、日に日に戦況が悪化していく中で、一時は将棋連盟の前身も解散宣言を出しました。

そんな中でも、終戦の翌年には順位戦が始まり、次の年には名人戦も行われ、もちろんそのごも様々な問題がありながら、それらを乗り越え、今の将棋界の隆盛があります。

これと同じようなことが、さまざまな業界でもあったと思うのですが、この令和の時代にそのころと同じような風潮を平然と耳にするというのは、あまり気分のいいものではありません。

「なぁんだ、あのころと全然変わらないじゃないか」というのは、いいものだけにしたいものです。