見えている景色

仮に羽生善治先生と私が同じ将棋盤を見たとして、その将棋盤は二人の目にまったく同じように映っている。

羽生先生が見た時だけ、香車が浮き上がる、なんてことはない。

だが、見えている景色はどうだろう。

見ている景色が同じなのだから、私も羽生先生に三回に一回くらいは勝てるだろうか。

それほど将棋というのは簡単なスポーツではない。

こういったことは、世の中でも起こっている。

誰でも見ている景色は同じなのだが、見えている景色はまったく違うのだ。

ここがわからない人がかなりいる、ということにある時気づいた。

そして、その景色を見るためには当人が努力しなければならないということにも気づいた。

例えば、羽生先生がある局面について事細かに私に言語化して説明してくれても、私はちんぷんかんぷんだろう。

この場合、羽生先生の言語能力に問題があるのではなく、私の理解力に問題があるのだ。

ここでもし私が「羽生先生はこの局面を全く説明できていない」などといったら、嘲笑は必至だろう。

つまるところ、なにかを理解するのには、当人の理解力に依るところがかなりあるということだ。

そして、その理解力は個人差がかなりあるということも研究でわかっている。

人がわかり合うには、世界は少し複雑すぎるのかもしれない。