良い文章

良い文章とはなんでしょうか。

わたくしも漠然と「良い文章が書きたい」と思ってはいるのですが、この「良い文章」というものが、いまひとつよくわからないでいました。

「速く走りたい」や「140キロのボールが投げたい」のような具体的なものであればいいのですが「良い文章」という抽象的なものは、いったいどういうものなのか。

幸い、わたくしも「良い文章」を書く人にたくさん出会い、それらの本を一通り読んでその都度「良い文章だなぁ」と思うのですが、それらすべてが同じ文体で書かれているかというと、そうでもありません。

書く人それぞれの味わい、趣があり、どこか大きく似通っているわけでもないのに、全体としては「良い文章」という評価になります。

これはいったいなんなのか、と考えていた時、ある方を思い出しました。

その方は、私が昔所属していた俳句サークルの方で、初めてお会いした時には、既に八十歳を超えていました。

その方が夏に詠まれた一句で「玉音聴けり我十歳の誕生日」という一句があります。

この俳句に、わたくしは魂が揺さぶられるほどの衝撃を受けて、以来この俳句が私の俳人としての原点となりました。

その方は以前「子どもの頃も俳句を詠んで、紙に書き留めていたんだけどね。空襲で全部焼失してしまったよ」と朗らかにおっしゃっていました。

わたくしも俳句を書き留めていた紙を無くしたことは数知れませんが、空襲で、というのはもちろん一度もありません。

また、その方は数年前に五十年連れ添った奥様を亡くされていて、その時に詠まれた一句が「年越しのそばの注文一人前」でした。

そんなあらゆる経験をされた方の詠まれる俳句に「良い」とか「悪い」とか、そういう俗世の評価を当てはめようとすることのなんと無意味なことだろう、と思ったのを今でもよく覚えています。

そして、わたくしの思う「良い文章」というものもこういうものなのではないか、と思いました。

「良い」とか「悪い」を超越した、その人の「人生」が見えてくる文章。

それを、わたくしは「良い文章」と捉えているのだと思います。