山田康夫さんや納谷五郎さんは自分のことを声優と呼ばれることを嫌いました。
わたくしも、あまり声優という表現は好きではありません。
ただ、山田さんや納谷さんと同じように「声だけにフォーカスされている」という理由で嫌っているわけではありません。
声優という職業はこの世にないと思います。
詳しくは手元にないので忘れましたが、桂米朝さんの「落語と私」に「声というものは、マイクロフォンを通った瞬間に、音になる」のような一文がありました。
ですから、声優というよりは、音優、という表現が正しいのでしょう。
そして、音というのは電子データです。
最近、AIがナレーションをしているのをよく見かけますが、将来はナレーションに限らず、ドラマ、アニメ、映画、すべての作品がAIにとって代わられます。
ですから、声優というのは、今が最後の輝きで、もう斜陽産業といっていいかもしれません。
ある時、すべての声優と呼ばれる人たちに退職金が払われて「ご苦労様。いままで助かりました。あとは、このお金で遊んでいてください」といわれる日が来るかもしれません。
そんな日が来た時に「やった、これで遊んで暮らせる」と喜ぶ声優さんが、どれくらいいるでしょうか。
わたくしは、そこで喜べず、それでも演技をしたいという人が、舞台に行くのだと思います。
100年前、やっとラジオが普及し始めた時代から、デジタルが始まり、やがて映画になり、テレビドラマになり、アニメになりました。
その中で、舞台役者さんは急速に廃れていったわけですが、青い鳥のように、100年かけて、また人々は舞台に戻って行くのだと思います。
そして、ありとあらゆる経験をして再び舞台から望む景色というのは、100年前の舞台役者さんが抱いていたものとは違うものでしょう。
北原白秋の「若かる我は見つつ観ざりき」のように、一周回って100年前と同じことをすると、同じものでも、同じではないのだと思います。
次回更新は7月3日を予定しています。