責任を負うことが恐い人が九割九分であることにある時気付いた。
どうもそういう人種は「責任を負う」ということが、死よりも恐いらしい。
なにか得体の知れないものは、まず恐がり避け、なるべく自分のところへ寄らないようにするのがそういう人種の生存戦略というものか。
責任なぞ負っても負わなくてもなんの問題もない。
なんならこの世の全責任を妾に負わせてもいい。
ロシアがウクライナに進行したことも、コロナが世界中で流行したことも、あなたの人生が不幸なのも。
全部妾の責任にしてもらって構わない。
で、いったいそれがなんの役に立つというのだろうか。
妾にロシアを止めることはできないし、コロナを抑え込むことも、あなたの人生を幸福にすることもできない。
「それをするべきだ」という人もいる。
これこそが、責任を負わせる最大の理由なのだ。
責任を誰かに負わせれば、自分は行動する必要もなく、考える必要もなくなる。
つまり、行動の放棄、思考の放棄なのだ。
そのほうがずっと楽な(気がする)のだろう。
ただ、実際はなんの問題解決にもなっておらず、事態は一向に好転しない。
コロナでもそうだが、故意であれ過失であれ、責任は明らかに中国、或いは武漢ウイルス研究所にある。
しかし、感染対策をしなければならないのは、各国の国民なのだ。
ここに、世の中の不条理、不平等がある。
被害者が、一番問題解決に取り組まなければならないのだ。
それが嫌だ、苦しい、非人道的だ、と多くの人はいうのだろう。
そんなことをいっても、なんの意味もないし、それが世の中の真実なのだが、そこから目を背けたくて、これだけ責任をなすりつける人間が蔓延しているのだ。
もちろん、自分はまったくなにもせず、誰かの行動だけによってその問題が解決すれば、嬉しさこの上なしだが、そんな夢物語は現実にはなく、現実はそこで奥歯を噛みしめて這い上がってこなければならないし、それが人間としての強さだと思うのだが、人間は弱い生き物だ。
どうしても、責任転嫁したくなる。
そういう人種に「責任は他の誰かにあっても、行動するのはあなたです」なぞといったら、怒り狂って殴られるかもしれない。
そして、怒りは常に悲しみの感情が含まれているから、いわれた人も心のどこかでは、自分が行動しなければならないことはわかっているのだが、それがあまりにも酷だ、残念だ、許せない、と思って怒っているのだ。
そんな人種に問題解決を強いるのは、ひょっとすると虐待になってしまうのかもしれない。
ともすれば、責任転嫁させておくというのが、最適解になるのだろうか。