偉そう

世の中には偉そうな人がたくさんいる。

それでいいのか、と思わないわけでもない。

本当に大切なのは「偉い」という事実だろう。

「偉そう」なんていう嘲笑の対象ではなく。

まあ、偉くなれないから偉そうにするしかないのだろうが。

それがまた、偉そうな人の自尊心を傷つけていると思う。

どんなに偉そうにしても「偉い」ということにはならないからだ。

だから、もっと偉そうにして「偉い」に近づこうとするのだが、やっぱり「偉く」はなれないので、偉そうに終始してしまう。

これは自傷行為に近いことだと思っているのだがどうだろう。

偉そうな人が不意に見せる、淋しげな目を見ていると、なんともいえない気持ちになる。

「自分は偉いんだ」と自己暗示をかけなければ、アイデンティティを保つことができないのだろう。偉い偉くないだけが、人生でもなかろうに。

だが、そういう人たちにとって、偉いか偉くないかは生死を分かつ問題であるようだし、でなければ、あの血眼になって偉さを求める理由が、妾の中で説明がつかない。

偉い偉くないは、そういう人の生存本能を刺激するのだろうか。

確かに、自然界では偉いほうが、生存確率は高まるだろうが、人間界では別に偉かろうと偉くなかろうと、生存確率に大差はない。

ともすれば、そういう人たちはまだ、爬虫類脳からの支配を脱していないだけなのだろうか。

わからないが、わかったところでこれからも敬して遠ざける、という妾のスタンスに変わりはないだろう。

偉そうな人は、傍から見てどうでもいいことに命を懸ける類の生命体だ。

そんな命を懸ける行為を笑うのは、ちょっと失礼というものだろう。

そういう行為に巻き込まれないように、ほどよい距離を保ちながら「アホくさ」とでも心の中でつぶやいて、これからも暮らしていこう。