妾の仕事場で、自分のやり方を頑なに押し通そうとする人がいる。
とにかく自分のやり方が第一で、そのやり方で結果がどうなっても問題ない、という姿勢だ。
いや「俺のやり方で失敗するはずがない」と自信満々にしている、といういい方のほうが正しいだろうか。
いずれにしても、自分のやり方に命を懸けているようなので、うっかりその人と違うやり方(それもその人より上手いやり方)をしようものなら、幸い怒鳴られはしないが、冷たい視線で妾を見つめてくる。
ジェラシーは理想と現実のギャップによって生まれるから、現実を高めるか理想を低くするとよいぞ、何某。
仕事を自分のやり方で進めることに、なんの意義があるのかわからない。
そこは理解しなければいけないと思うのだが、どうも妾には理解できない。
未熟ゆえだろうか。そこもわからない。
しかし、自分のやり方にあれほどまで頑なな、あるいは命を懸けているさまを見ていると「なにをどうでもいいことに……」と呆れるやら哀れむやら。
とまあ、ここまで書いてきて、これはひょっとすると子どもがゲームに夢中になるのと同じなのかと思った。
確かに妾も子どもの頃はゲームを10時間以上して親を困らせたものだ。そして、いま振り返ってみると「まあ、気持ちはわかるがあれほどせんでもよかった」と思う。
あの自分のやり方に頑なな人も同じなのだろうか。
なにかその人にしかわからない大切なものがそこに渦巻いているのかもしれない。
妾がゲームを中断されて怒っていたように、その人も自分のやり方を遮られると怒るのはその辺りに原因があるのだろうか。
ならば、妾が大人になって、できるだけ思うままにその人のやりたいようにやらせるのがよかろうなのだろう。
そしていつかはその人も成長して「ああ、若かったなぁ」と振り返る。
妾も「子どものうちにバカしておかないとダメよ。子どものうちにバカしないと、ロクな大人にならないわ」というに違いない。
どこにでもある光景だ。人間そういう道は一度は辿らねばならない運命にあるのだから。
ただ、その人と妾の年齢が倍近く違うのがいったいどんな意味を持つのか。
それもまた、妾の理解できないところの一つである。